研究紹介記事 No.12
平成14年11月22日掲載

「島根県木次町における千歯扱き生産の発展」
(法文学部社会システム学科 舩杉研究室 岡田あい子)

 かつて山陰地方ではたたら製鉄が盛んであったが,私は原料生産の場としてだけではなく,その鉄を利用した加工業について興味を持つようになり,島根県大原郡木次町の千歯扱き生産について調べている。木次町がどのようにして千歯扱きの生産地となり、広範な販売先を持つにいたったのか、生産と流通の両面から歴史地理学の視点で明らかにしようと取り組んできた。これまで,古文書などの歴史資料や現地での聞き取りなどの調査を続け,得られた情報を地図化して解析するなどの研究を重ね,次のことが明らかになってきた。  江戸時代に生まれた農具の一つである千歯扱(こ)きは,木製の台に金属製の歯を櫛(くし)状に打ち付け、歯に稲束をあて引き抜いて脱穀するもので、脱穀作業の能率を著しく向上させ,大正時代に回転式足踏脱穀機が普及するまで全国で使用されていた。
 木次町では、一八三九(天保十)年に千歯扱き生産が始まり、最盛期の明治二十〜三十年代には千歯扱き業者が五軒に増え、千歯鍛冶職人は八十人を超えた。統計資料や文献などから,明治時代の生産数は年間一〜二万台程度であったと考えられる。生産が行われた背景には、飯石郡・仁多郡など近隣でたたら製鉄が盛んで原料を入手しやすかったこと、薪炭材が豊富であったこと,もともと和釘などを生産・販売しており、他の製品に発展できるような鉄加工技術を持っていたこと、有力な産地である倉吉から千歯扱きの製法を摂取する接点があったことなどが考えられる。
 流通面については、千歯扱きを送った際の送り状(一九〇八年、榊原家所蔵)によると、木次千歯が誰の手を経て、どのような地域へ売られていったのかを知ることができる。榊原家の千歯扱きは、小樽・土崎・新潟・境港・門司の日本海各地の港へ送られており、回漕店や汽船会社、旅館などが受け取り先となっている。それを木次の商人や西浜商人(島根県湖陵町)といった行商人たちが売りさばいていた。西浜商人は千歯扱きを扱う以前から、古着、呉服、日用品などの行商で各地に得意先があり、輸送を中継した境港の柏木回漕店は、藩政期から和鉄、木綿、肥料などの回漕を手がけ、日本海側沿岸地域に取引先を持っていた。木次千歯はこれらの流通ルートにのって販売網を広げていったと考えられる。
 木次千歯の事例は,地域が持つ特色をいかし,生産と流通が連携することでシェアを確保していくという産業スタイルの成功例とも言える。地域の歴史を振り返ることは,地域にあるたくさんの可能性を認識し,今後の地域のあり方の模索につながると信じて,研究を続けている。


千歯扱きに関する歴史資料(古文書)を調査し,まとめている筆者

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